ホーレンシュタイン指揮のマーラーの第8


BBC LEGENDS から出たホーレンシュタイン指揮のマーラー8番を聴きました。非常にスケールの大きい重量感のあるマーラーです。特に第2部が優れていると思いました。独唱と合唱はさすがに凹凸がありますが,特にぶちこわす人もなくおおむね高い水準だと思います(第2部でテノールが一ヶ所出遅れてるのはドキッとしましたが)。なんと言っても素晴らしいのはホーレンシュタインの指揮で,例の堂々たる音楽,説得力があります。1959年の録音にもかかわらず,かなり鮮明な音です。

なお,これはこの曲のステレオ録音としてはもちろん最古で,この曲の現存する録音の中でもストコフスキー,シェルヘン,フリプセに次いで4種目のようです。英国でもこれ以前には3度演奏されただけで,ホーレンシュタイン自身はじめてだったということが解説(名文!)に書かれています。もし歌手の誰かが病気になったら代わりがいないので,全員にアンダースタディを用意したとのこと。

なお,このCDのボーナストラックでは,アラン・ブライスを聞き手として,ホーレンシュタインがいろいろな音楽家について語っており,非常に面白いです。少し詳しく紹介しておきます。なお,以下に掲げるのは翻訳ではなくやや詳しい要約といった性質のものです。聞き取れないところはだいぶ適当に当て推量で訳してます(^^;)。なお,以前このインタビューはトリオから国内盤LPとしてホーレンシュタイン指揮のマーラー/交響曲第6番のフィルアップとして出ており,そちらには全訳が載っていたとのことですので,より正確な訳が欲しい方はそちらを図書館ででも探してみてください。

(A.B.:ウィーンにいた若い頃マーラーと接点がありましたか。) 私の一家はマーラーが亡くなった半年後にウィーンに移住した。当時私は13歳だったが正直言ってマーラーの名前はよく知らなかった。1912年にウィーンで大きなフェスティヴァルがあり,ウィーンだけでなく周辺の都市でもたくさんの演奏会があった。その中ですごい演奏会が3つあった。私が指揮者になるのに大きな影響を与えたニキシュ指揮の演奏会,ヴァインガルトナー指揮の演奏会,それにヴァルター指揮によるマーラーの9番の初演だった。私は3つとも聴くだけの小遣いはなかったので選択をせねばならなかった。結局私はニキシュの演奏会とヴァインガルトナーがベートーヴェンの1番と9番を振った演奏会に行って,マーラーは聴かなかった。今となっては惜しいことだと思っている。マーラーの9番は今や私の war-horse だから。

解説によると,ニキシュの演奏会はブラームスの4番とブルックナーの9番だったそうです。war-horse (ありふれた出し物)という語はどういうニュアンスで使ってるんでしょうね(^^;)。

シェーンベルクは非常に独裁者的だった。親しかった(シェーンベルクの弟子の)ハンス・アイスラーに「シェーンベルクから何を学んだか」と訊ねたら「タバコの火の付け方からはじまって何もかも。」と答えた。私はそこまで支配されるのは嫌だったから弟子にはならなかった。しかし私はシェーンベルクは尊敬していて,公開講演があるときはいつも行っていたし,彼の設立した私的演奏協会の会員でもあった。この私的演奏協会の演奏会では入り口で門衛が会員証を厳しくチェックするのだが,その門衛はヴェーベルンやベルクがやっていた。

ベルクとは個人的な友情があった。手紙のやりとりもあったし,ベルクは私の演奏を聴きにきていた。デュッセルドルフで『ヴォツェック』を振ったときは,ベルクも夫人と来て,2週間一緒にいた。彼は全てのリハーサルと初日に立ち会った。

ヴェーベルンとは表面的な付き合いで,ゆっくり話したのは,デュッセルドルフで音楽祭をやったとき,ヴィーンからデュッセルドルフへの列車の中で何時間か話しただけだ。彼はおそろしく堅苦しい(tense)人だった。そしてとても内気で欲求不満で,この欲求不満の反動で,逆にかなり高慢であった。私は彼を音楽家としての孤立ゆえに高く評価している。私のライブラリーにある彼の作品のスコアはほとんど彼から個人的に買ったものだ。なぜならどの出版社も彼の作品を出版せず,自分で出版していたからだ。

(A.B.:彼の音楽をどう思うか。)難しいけれど,1907年や8年に,他の作曲家が巨大な音楽を書く中で,あれほどアフォリズム的で切りつめられた音楽を書いていたのは大変なことだ。彼がアウトサイダーにとどまるのか,新しい世代の作曲家に強い影響を与えるのかを語ることができるのは,ただ時間だけだ。今日の作曲家たちへの彼の影響は折衷的(eclectic)にすぎない。(この後ちょっとわからなかったので中略)(A.B.:でも今も彼は若い作曲家の偶像でしょう。)そう,でも10年か15年前ほどじゃない。

信じがたいかもしれないが,シェーンベルクも含めて,彼等はみな極度に偏狭(provincial)であった。音楽が作られたり演奏されたりするのはウィーンだけだと彼等は本気で考えていたのである。唯一の例外はベルクで,彼はシェーンベルクと全く違い,世界人(homme du monde)であった。彼はさほど旅行はしなかったが,フランス音楽をよく知っており,ドビュッシーやラヴェルを絶賛していた。 また彼は私に,ディーリアスの『人生のミサ』に強い感銘を受けたことを話した。スクリャービンの考え,音楽に非常に感銘を受けていた。ブゾーニを高く評価していた。シベリウスやニールセンについて彼と話したことはないが,1927年に(フランクフルトでシベリウスやニールセンを聞いて)ベルクが彼等に非凡なものを見出していたとしても驚かない。シェーンベルク学派ではこれはひどく嫌われていたこと(anathema)だったが。彼等にとってはドビュッシーはエキゾチックな音楽として,印象主義の一語で片づけられていた。ベートーヴェンの最後の四重奏曲の流れでない音楽は,正統な音楽の流れの外なのだった。彼等はひどく provincial だったのである。ベルクは違ったが。

1927年にフランクフルトで国際現代音楽協会のフェスティヴァルが行われ,このときはバルトークをソリストに迎えてフルトヴェングラー指揮でピアノ協奏曲第1番の初演などが行われたのですが,ホーレンシュタインはこの時フルトヴェングラーのための下稽古を行ったそうです。トレミン編のフルトヴェングラー演奏会記録によるとこれは7月1日,オーケストラはフランクフルト歌劇場のオケで,フルトヴェングラーがバルトークとニールセンの5番を振った他,ヘルマン・シェルヒェンとワルテ・ストララムが他の曲を指揮したとのこと。

3日間の間に私はバルトーク,ヤナーチェク,ニールセンと会った。ヤナーチェクは室内楽だけだったので一緒に仕事はしなかった。しかし,バルトークとは,フルトヴェングラーが指揮して初演するピアノ協奏曲第1番のためのたくさんのリハーサルで一緒だった。私はニールセンの交響曲第5番もリハーサルした。

バルトークはヴェーベルンのハンガリー版で,非常に几帳面で,音楽的原則の人で,人間的というよりも生きた百科事典のような人だった。ニールセンは逆に人間的以外の何者でもなかった。ヤナーチェクは見た目,オーストリアかチェコの旅館か喫茶店のオーナーという感じで,ウェストコートにチェーンを付けていたりして,とてもブルジョワ,中流--下の方だが--という感じだった。 私がフルトヴェングラーのためにリハーサルをしているとき,ヤナーチェクは後ろの方に坐っていたが,私はコンサート会場の建物の支配人か誰かと思っていた。初日はオペラハウスでのクレメンス・クラウス指揮のブゾーニ『ファウスト博士』だったのだが,その後レセプションで遅くなってから紹介されて,はじめてヤナーチェクだと知った。リハーサルの時は休憩の時も話し掛けて来ず,私やニールセンを無視して坐っていたからだ。

フルトヴェングラーが到着してから行なったリハーサルは二回だった。一度はドレスリハーサル,一度は私がリハーサルしているのを見ていたのである。私はフルトヴェングラーに見てほしくて,オーケストラを何度も止めて注意を出していたが,後でフルトヴェングラーに「君は一曲を通して演奏することの大切さを過小評価している」と注意された。これはいい教訓になった。

1930年代にはデュッセルドルフでR.シュトラウスも知るようになりました。最後にホーレンシュタインはシュトラウスについて語っています。

『アリアドネ』について相談するためにR.シュトラウスをベルリンの国立歌劇場の彼の事務所に尋ねた。彼が何日か前に,私が『ティル』を振った演奏会に来ていて,演奏のあとすぐ帰ってしまったことを,妻から聞いて知っていたので,私の演奏について何か言われるのではないかと向かう途中は思っていた。 しかし彼は快く迎えてくれて,いきなり「『アリアドネ』のスコアを持ってきてるかい?」と訊ね,私が「もちろん」と答えると,ピアノの前に坐って最初から説明しはじめた。「四人の一級の歌手が揃えられないならブッフォのここはカットしていい。」などと次々ページをめくっていったが,ある時彼は言った。 「ところで,昨夜君の『ティル』を聴いたが」−−少し黙って−−「全然悪くなかったよ。悪くなかった。」そして彼は言った。「君,指揮棒は目の高さに持ちなさい。楽員は指揮棒を見ながら君の目を見て安心するから。」 この言葉で彼が意図していたことを理解するのに私は25年かかった。言われたあとやってみたのだが,ずっと指揮棒を保持することができずうまくいかなかった。しかし彼は本当にそうすることを言ったのではなく,指揮する際の目の重要性を強調したのだ。 (A.B.:シュトラウスはどんな人だと感じましたか。) 氷のように冷たい。氷のように冷たい音楽の皇帝。

(1998年12月FCLAに書いたものを 99.2.11 増補改稿)


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