マーラーの「大地の歌」

エルヴィン・ラッツは,「大地の歌」は歌詞が音楽を規定しているので詳細な分析は不要だ,と言っている。しかし音楽を規定するその7つの詩を選んだのはマーラー自身だし,やはりただの歌曲集ではなく一個の交響曲なのだから,その理解のために形式を分析することは無意味ではないだろう。ここでは,本格的な分析という程のものではないが,少し気付いたことを述べてみたい。

柴田南雄の指摘している通り「大地の歌」は「第7」「第10」などと共通するアーチ構造をもっている交響曲だ。しかも注意して見ると,この曲の前半と後半は一見した印象よりかなり細かく照応しているのがわかる。中心をなすのは「青春について」「美について」「春に酔える者」の3つのスケルツォであるが,この部分自体アルトの「美について」をテノールの「青春について」「春に酔える者」が挟む形となっている。そして「美に」の中間部(馬が走る所)はまた全曲のほぼ中央にあたる。そしてここは音楽としても折り返し点にふさわしい盛り上がりを作っているため,この後の楽章の愁いをより際立たせている。

一方「大地の哀愁を歌う酒の歌」「秋に寂しき者」という最初の2楽章には,二人の詩人の詩からなるフィナーレ「告別」が対応する。長さを見ても,405小節の「大地の哀愁」と154小節の「秋に寂しき者」を合わせると559小節となり,572小節の「告別」とちょうどバランスが取れる。

そして「告別」のまさに150小節付近にはこの楽章を二つの部分に分ける重要な転換点があるのである。まず木管の描く鳥がねぐらへ飛んで行ってしまい「世界が眠りにつく」とともに本当にひとりの孤独感を強く感じさせる。そしてアルトが冒頭の旋律に復帰して少し歌ったあと曲は変ロ長調に移り,弦,ハープ,マンドリンがにわかに浮世離れした響きを奏ではじめる。それに乗ってフルートが「ミソーラ・ミソーラシ」という憧憬にみちた動機を吹き,1vnは "ewig, ewig" の主題をここで初めて歌い始める。このフルートの動機と "ewig" の旋律が,大詰めになって本格的に彼岸的な雰囲気を描き出すまでにはまだ管弦楽の間奏などしばらくあるので,ここでは予告的なあらわれというべきではあるが,これらの出現は音楽が全く新しい世界に入ったことを明確に印象づける。つまり「告別」もこの地点を境として,ちょうど第1,2楽章に対応するように分かれているのである。そしてついに全曲の終わり,今度はflとobで現れる「ミソラ・ミソラシ」の動機は,ちゃんと全曲の冒頭の「ラソミ・ラソミド」に対応している。ついでにアルトの "ewig, ewig" 「ミーレード」(曲尾では基音にたどりつかないままだが)はテノールの歌いだし "Schon winkt der (Wein) " 「ドーレーミ」(「力いっぱい」と書かれている)に対応する。イ短調で始まったこの曲が様々な調性を経てハ長調で終わるというのもつじつまがあっている。

このように「大地の歌」は決してでたらめな配置ではなく非常にシンメトリックに構成された交響曲であるわけだが(「第5」「第7」「大地」「第10」と一曲おきにこの構造があらわれていることになる。),実はシンメトリックなのは全体の構成だけではない。各楽章の動機にも前後対称なものが多く選ばれているのだ。例えば「美について」で頻出する「ドレミソミレド」,「青春」冒頭の「ソラドレミソミレドラソ」,「春に」の「ソーファレファソー」は,すべて逆行しても同型になる対称形を取っている。五音音階を上がって下がるだけの形ならヨーロッパ音楽で中国を表す時のありふれた語法だ,というなら「秋に」冒頭のvnの上下行は,また曲頭のhrの「ミラミレミラミ」はどうか。これらは偶然でないように思う。「大地の歌」においてシンメトリー形式は単に全曲を統合するためだけに採用されたのではだけでないのではない。マーラーは曲全体の構成にも各楽章の動機にもシンメトリックな形を使うことで何かを表そうとしたのではないか。

この問いへの手掛かりは「青春について」の歌詞にある。この楽章は魅力的な音楽に比べて歌詞はあまりにも陳腐なため,その内容についてなどだれも本気で考えたこともないかもしれない。しかし名だたる読書家マーラーがこの詩を選んだからには何か心に触れるものがあったはずだ。その意味で注目されるのはこの楽章の中間部だ。水面に景色が映って何もかも逆さに見える,という一見何でもない歌詞のところで音楽は急にかげりを帯びる。ごく短い部分だが,前後の音楽が明るいだけに強い印象を与える。これは作曲者が「水鏡に映って逆さに見える世界」というイメージを何か重要な象徴として考えていたことを表しているのではないだろうか。おまけにこの水鏡のモチーフは次の「美に」でも再び現れるのだ。こちらでは曲調が特に変わるわけではないが,やはりマーラーがそういう内容の詩を選んだということは見逃せない。つまり全体の構成や各動機のシンメトリーは「水鏡に映る世界」の隠喩なのではないか。

この「水鏡に映る世界」のイメージは「大地の歌」を理解するための大切な鍵となっているように思われる。ここで思い出されるのは冒頭の「ラソミ」が曲尾で逆行形の「ミソラ」となって帰って来ることだ。これはまさに「鏡」ではなかろうか。「ラソミ」は「大地の哀愁」だけでなく「秋に」冒頭のobソロにも出て来る重要な動機である。イ短調の主音からはじまるこの動機に対し,ハ長調の分散和音上に浮遊する「ミソラ」は何度繰り返されてもハ音に到達せず,彼岸への憧れのように響く。しかも,ちょうど水に映じた風景を陽光のきらめきが飾るようにチェレスタの分散和音(これもシンメトリックな上下行をする)が明滅する。水面に映った風景というのは見るものにしばしば現実離れした美を感じさせるものだ。かつて,薬師寺東塔は西塔跡礎石にたまった水に映る姿が最もすばらしいと言われたように。マーラーがこの交響曲を閉じるにあたって,やがて春になり大地に花々が咲き乱れるという幻想と,水面に逆さに映る(中国の?)風景のイメージを重ね合わせたとしても不思議ではなかろう。敢えてまとめるならば「間もなく死を受け入れようとする人間の目に映る世界は,ちょうど水鏡に映るそれのようにすべてが美しく愛しい。それはどちらもはかない影像に過ぎないからかも知れない。」というところか。

さて,マーラーが「大地の歌」の形式や動機や歌詞に「水鏡」のイメージを導入することで語ろうとしたテーマは一体何なのか,という問いに一応の答えが出た。もっともこれが「大地の歌」の唯一のテーマであるというつもりはもちろんなく,こういう側面もあるんじゃないだろうかという話である。もしお望みならさらに東洋的な輪廻やユダヤ的な死と再生の思想を持ち出して遊んで頂くのも自由だし,モネら印象派の絵や,わずか3年前に書かれたドビュッシーの「水の反映」の刺激を想像するのも面白いかもしれない。しかし我々がこの曲を聞くときにイメージを広げるための助けにはこの辺で十分だろう。

(大昔、某誌の投書欄に出したものを改稿。98.9.3)


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