音楽の新しい美学のスケッチ



この翻訳について
Feruccio Busoni: Entwurf einer neuen Aesthetik der Tonkunst, 1907, Berliner Musikalien Druckeri G.m.b.H, Charlottenburg (第1版です)の全訳です。なお,Sketch of a New Esthetic of Music by Ferruccio Busoni, translated from the German by Dr. Th.Baker, 1911, G.Schirmer, New York (同書の英訳)を参照しました。/S.20/はドイツ語原書のページ数,/p.20e/は英訳のページ数をあらわします。訳語の不統一や誤訳はかなりあると思います。ブゾーニは1924年に亡くなっていますので著作権の問題はないと判断しています。

なお,1916年版の方の原文がここにあります。
訳者 "Hayes"



「あなたは何を求めるのか?言いたまえ。何を期待しているのか?
私にはわからない。私は未知なるものを望んでいるのだ!
私の知っているものは無限だ。私はさらにそれ以上を望む。
私に欠けているのは究極のことばだ。」(『強力な魔術師』)

文章上の形態としては非常にゆるやかに結びあわされているが,これらのスケッチは実際には長くゆっくりと成熟した信念の成果である。

それらには,見かけ上は単純なある最大の問題が,その最終的な解決の鍵を与えられることなく存在している。なぜならその問題は,仮に解決可能であるとしても,一生かかっても解決できないものだからである。

しかしそれは,より小さい無数の関連する問題を含んでいて,私はそれらに同じ熟考を向けている。なぜなら人はすでに非常に長く音楽において真剣な探求に没頭してはこなかったからである。

きっとどの時代にも天才や賛嘆すべき人は生まれる。そして私は常に,先頭を行く旗手を喜んで歓迎する第一列に身を置いた。しかし私には思える,多くの道は,行く者をとても広いところへ導くが,しかし―上へではないのだ。/S.3/

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 ある芸術作品の精神,感覚の基準,その中にある人間的なもの,―これらは時代の変遷を通じて変わらず価値あるものとして残る。これら三つが取った形態,これらが表現された手段,これらの生まれた時代がこれらに注ぎかけた趣味,それらはうつろいやすく,すぐに古くなる。

精神と感覚とはその性質を保持する。人間においてと同様,芸術作品においても。技術的達成に人は感嘆するが,しかしそれらは追い抜かれ,あるいは趣味がそれらに飽きてそっぽを向く。―

一つの作品の「新しさ」を為すのは,うつろいやすい諸特質である。変わらないものは「時代遅れ」になることから守られるのである。「古いもの」の中にも「新しいもの」の中にも,良いものと悪いもの,本物と贋物がある。本質的に新しいものというのは存在しない。ただ,より早く,あるいはより遅く生まれたものがあるだけである。より長く栄えるか,より速く衰えるか。新しいものも古いものも,いつも存在したのである。―

芸術の諸形は,継続すればするほど,個々の芸術のジャンルの本質によりぴったりと従うようになり,より純粋にそれらの本来の手段と目的のうちにとどまる。

彫刻は人間の瞳と色の表現を放棄している。絵画は表現する平面を去って,劇場装飾やパノラマ画になると格下げになる。

建築は下から上に進まねばならないという基本型を持っており,静的な必然性によって支配される。窓と屋根はやむをえず平均的な,そして閉じた外形を与える。これらの条件はそれにおいて永続的であり不可侵である。

詩は抽象的思考を支配する。言葉という衣装をまとわせて。それは最もはるかな境界まで達し/S.4/,より大きな自立性を持っている。

 しかしすべての芸術,手段,形式は一定して唯一のもの,すなわち自然の模写と人間の感覚の再現に到達する。

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建築,彫刻,詩,絵画は古く成熟した芸術である。それらの概念は安定し,目標は確固となっている。それらは何千年をかけて道を見出し,惑星のように規則正しく円(注)を描く。

それらに対して音芸術は,確かに歩くことは学んだがまだ導いてもらわねばならない子供である。それはまだ何も味わいも苦しみもしていない処女の芸術である。

彼女は,なにを身にまとっているか,彼女の占める長所はなにか,彼女の中に眠る能力はなにか,自分ではまだ気付いていない。他方で彼女は,既にたくさんの美を提供することのでき,既に多くの人を喜ばせることができた,そして一般にはその才能が完全に成熟したと見なされている神童である。

 

注: にもかかわらずそれらへの好みと特色は常に若返り,更新されることができうるし,そうなる。

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芸術としての音楽,いわゆる西洋音楽はやっと400歳であり,発展の状態にある,おそらくまだ予測できない発展の第一段階に。なのに我々は――我々は古典的巨匠や神聖な伝統(注)について語るのである。そしてもうずいぶん我我はそれらについて語っている。/S.5/

我々は規則を公式化し,原則を立て,法律を指示した―――我々は成人の法律を,まだ責任を知らない子供に適用しているのである!

注: 「伝統」は生命から奪われた石膏のマスクで,長年の経過と数えきれない職人たちの手を通って来た――ついにはオリジナルとの類似性は今や推測されるしかない。

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この子供は幼いが,なによりその姉たちから際立たせる輝かしい特性が既に彼女において見分けられる。そしてこの不思議な特性を立法者たちは見ようとしないのである,そうでなければ彼らの法律はひっくり返されてしまうからだ。子供は――浮遊している! それは自分の足で地に触れてはいない。重いものに従いはしない。それはほとんど非肉体的である。その素材は透き通っている。それは鳴り響く大気なのである。それはほとんど自然そのものである。それは――自由である。

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自由はしかし,人間が全く理解しておらず完全に感じていない何かである。それを認識することはできないし知覚することもできない。

彼らはこの子供の定義を否認し,おもりを掛ける。浮遊している存在は上品に歩かねばならない,他の者のように。ほとんど跳ねることもいけない――その望みが虹の道をたどって雲で日光をさえぎることであったとしても。

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音楽芸術は自由なものとして生まれ,その定義は自由になるものである。それは,その非物質性の非束縛性によって,あらゆる自然の反映のうちで最も完全なものとなる。詩的言語さえその非肉体性において及ばない。それらは/S.6/ひとかたまりになり,散り散りに流れ,身動きしない停止でも,最も激しい嵐でもありうる。それは人間が知覚可能な最高の高さを持っている――他のどの芸術が持っているだろうか?――そしてその感覚は人の胸を,「概念」とは無関係の緊張で射抜く。

それはある感情を,記述することなく,心の動きとともに,継続する瞬間の活気とともに,再現する。画家や彫刻家がただある一面,あるいはある一瞬,ある「状況」を描写しうるところの,そして詩人がある感情とその進展を苦労して言葉で伝えるところのものを。

それゆえ記述や描写は音芸術の本質ではない。これによって我々は標題音楽の否定を表明し,音芸術の目標という問題に到達する。

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絶対音楽! 立法者たちがそれについて思っているものはおそらく音楽における絶対から最も遠いものである。絶対音楽とは,詩的標題のない形態の遊戯である。そこでは形態こそが主題となる。しかし現在,形態は,浮遊するという崇高な特権を受け,物質の条件から自由な絶対音楽に対立して存在する。絵において日没の描写は枠において終わる。限りのない自然の光景が四角い境界を与えられるのである。一度選択された雲の描写は永久に変わらずそこにある。音楽は明るくなったり暗くなったり位置がずれたりついには空の見かけそのもののように息づくこともでき,本能は創造的音楽家を,人の心の中で同じキーを押し,自然の過程のように同じこだまを呼び覚ます音を使うよう導く/S.7/。

絶対音楽はそれに対し,整然と並べられた譜面台や,トニカとドミナントの内容や,展開部とコーダやらを連想させる,全く味気ないものである。

私はそこに,四度低く,より速い第1を模倣することに懸命で,すでに最初にいたところに到達するための無駄な闘争をする第2ヴァイオリンを聴く。この音楽はむしろ建築学的あるいはシンメトリックあるいは分割された音楽と言うべきであり,おのおのの音の詩人たちが彼らの精神や感覚を,それが彼らあるいは時代に最も近くあったゆえに注ぎ込んだところの形態に由来する。立法者は精神,感覚,かれら作曲家たちの個性と彼らの時代を,そのシンメトリックな音楽と同一視し,ついには ― 精神も感覚も時代も再生産できなかったため,形式を象徴として保ち,看板に,宗教に引き上げた。音の詩人たちはこの形態を,彼らの思考を伝えるための最もふさわしい手段として求め,見つけたのである;それは浮遊していた ― それを立法家は発見し,地上にとどまっている衣装に恍惚を監禁した:

「なおまた幸いにも見つけ出された!
 確かに炎は消えたが
 しかし私にとって世界は苦痛ではない
 ここには詩人たちに教えるに十分な
 寄付するための金と同業者への妬み?が残っている。
 そして私は才能を貸し出すことはできないが,
 少なくとも衣装は貸せる。」

人が作曲家にとにかく独創性を求めておきながら,/S.8/形態におけるそれは禁じるというのは奇妙なことではないだろうか。彼が本当に独創的なら,彼を無形態のかどで非難するとはなんという不思議か。モーツァルト! 探求者にして発見者,子供の心をもった偉大な人間,彼を我々は驚嘆して見つめ,そして愛する。しかしそれは,彼のトニカやドミナント,展開部やコーダにではない。

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そのような解放の欲求がベートーヴェンというロマンティックな革命人を満たしていたから,彼は音楽をその高い本質に還す小さな一歩を登ったのである。偉大な使命における小さな一歩,彼自身の道における大きな一歩を。彼は,完全に絶対的な音楽に,到達はしなかったが,ハンマークラヴィーア・ソナタのフーガへの序奏のような若干の瞬間において予感した。概して音詩人たちは,シンメトリックな釣り合いに注意しなくてもよいと思い,無意識に自由にくつろぐ箇所であるところの,準備的あるいは間奏的楽章(前奏や移行部)において,音楽の本当の性質に肉薄した。はるかに小さくはあるが,シューマンはそのような箇所において,このパンの芸術の無限のうちの何かを ― ニ短調交響曲の終楽章への移行部分を思い浮かべていただきたい ― つかんでおり,同じことがブラームスと彼の第1交響曲フィナーレの序奏についても言える。

しかし彼らが主要楽節の戸口に進んだとたん,彼らの姿勢は,役所の部屋に入った人のそれのように,硬く形式ばったものとなる。

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ベートーヴェンと並んでバッハも「原音楽」に最も近い。彼のオルガン幻想曲(フーガはそうではない)は/S.9/「人間と自然」(注1)と標題を付けられるものへの強力な衝動を疑いなく持っている; 彼においてそれは最も率直にあらわれる。なぜなら彼はまだ,いかなる先行者も尊敬してはいなかった(たとえ感心したり利用したりはしていたとしても)し,まだ新しい平均律の獲得は,彼にさしあたり無限の新しい可能性を手に入れさせたからである。

それゆえバッハとベートーヴェン(注2)は,越えることのできない完全性としてではなく,ひとつの始まりとして捉えるべきである。おそらく彼らの精神と感覚は越えられないまま残るであろう。そしてそのことはこの詩行のはじめに述べたことを再び確認する。すなわち,感覚と精神とは時の移り変わりによって価値を何ら失いはしないこと,そして,彼らのうち最も高い高みに登る者は,いつも群衆の上にそびえるであろうことを。

注1:彼の受難曲のレシタティーフは「正しく朗唱された」でなく「人間的に語る」ものを持っている。

注2:ベートーヴェンのパーソナリティの性格的特徴として私は,文学的活力,強い人間感覚(彼の革命的信念はここから湧き出した),そして近代的な神経質さの予告を挙げたい。これらの特徴は確かにあの「古典期の巨匠」とは反している。加えてベートーヴェンは,モーツァルトや,後のヴァーグナーのような意味での「大家」ではない,彼の芸術は,より偉大なものの暗示ではあるが,しかしいまだ完全にはなっていないからである。(次の段落と比較せよ。)

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なお越えられるべきものは,彼らの表現形式と彼らの自由さである。オーケストラの響きにおいて世界の地平線をかすめたゲルマンの巨人ヴァーグナーは,表現形式を高めはしたが,しかし一つのシステム(楽劇,デクラマツィオン,ライトモティーフ)において使ったゆえに,それをさらに高める力はない。彼のカテゴリーは彼自身とともにはじまり,終わる。彼はまずそれを最高の完成に/S.10/,仕上げに使ったからである。さらに,彼が自らに要求した使命は,それ[カテゴリー]が人一人によって解決されえたようなものだったからである(注)。ベートーヴェンが我々に開いてくれた道は,何世代もかかってやっと進むことのできるものである。それらは,世界の体系の中のあらゆるものと同じく,ただ一つの輪を形作る。しかしこれは,我々が見る部分が今は直線に見えるような規模のものである。ヴァーグナーの輪は我々は完全に見渡すことができる。― 大きな輪のなかの一つの輪である。

注: 「我々には問題と同時に解答もある。」私がモーツァルトについてかつて述べたように。

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ヴァーグナーの名は標題音楽へと導く。それはいわゆる「絶対」音楽に対立するものとしておかれ, それらの概念は化石化してしまい,賢い人々が,それら二つの外,上にある第3の可能性を想定することなく,一方かそうでなければ他方かという信念を持ってしまうほどである。実際のところ,標題音楽は絶対音楽と言われているものと同程度に一面的で限定されたものである。建築的でシンメトリックな定式のかわりに,トニカやドミナントの関係のかわりに,結びあわせるための,文学的な,特にはまったく哲学的なプログラムという添え木を,それは自らに縛り付けているのである。

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おのおのの動機は,種子のように,新芽をその内に持っていると、私は思う。さまざまな植物の種は、形,葉,花,果実,背丈も色も互いに違ったさまざまな種類の植物を芽吹かせる(注)/S.11/。

一つの同じ植物の種類でも,広がりにおいても姿も力もそれぞれの個体で独立したものとして成長する。同じようにそれぞれの動機にはすでにその完全に熟成した姿があらかじめ決定されているのである。それぞれ個別のものが別なように発展しても,それはその点において永遠の調和の不可避性に従っているのである。この形は破壊しがたいものとして残るが,決して変わらないというわけではない。

注: 「――― ベートーヴェンは,テーマや要素のスケッチは膨大なのに,テーマが見つかるとすぐ展開部全体がひとりでに確立したように思える ―」(ヴァンサン・ダンディ『セザール・フランク』)

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標題音楽作品の動機は,自分のうちに同じ前提を持っている。それは,すでにその次の展開の段階で,固有の原則によってではなく,「標題」によって形作られねば,いやむしろ,「曲げられ」なければならない。このように,確かに最初の形成においては自然法則の道から持ってこられても,それはついには全く予想されなかった頂点に至るのである。そこへは,それの構造ではなく,標題,あらすじ,哲学的思考が計画的に連れていったのである。

そしてこの芸術はなんと原始的なままとどまらなければならないことか! 確かに誤解されない音画的な表現はある ― それらは完全なすべてのきっかけを作った ― が,それらはわずかな取るに足らない手段であり,音芸術のごく小さな部分を構成するにすぎない。それらのうち最もわかりやすいのは,自然の物音を模倣することよる楽音の音響への格下げである。雷のとどろき,木々のざわめき,動物の声。そしてそれほどはわかりやすくなく象徴的なのは,視覚から引き出された,稲妻の光,跳躍運動,鳥の飛行などの模倣。頭で考えて翻訳しなければ理解できない,戦争の象徴としてのトランペット信号,田舎の看板としてのシャルマイ,歩みの意味での行進曲のリズム,宗教的な感覚をもたらすものとしてのコラール/S.12/。 さらに我々は民族的性格のもの―民族的楽器,民族的旋律―を前のものに含めれば,標題音楽の楽屋裏を残らず見学したことになる。動きと休止,短調と長調,高い音と低い音は,それらの因習的な意味において在庫目録を補充する。それは大きな枠組の中の副次的な補助手段としては十分使えるが,蝋人形が記念像でないのと同様,単独ではほとんど音楽とは捉えられない。

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それにそもそも,地上の小さな事象の描写,不愉快な隣人―隣の部屋のだろうが隣の大陸のだろうが―についての報告が,宇宙を貫いて流れるあの音楽と何を共有しうるのだろうか?

確かに音楽にはさまざまな人間の心の状態が与えられ,響かせられている。怖れ(レポレッロ),不安,回復,疲労(ベートーヴェンの晩年の四重奏曲),決意(ヴォータン),躊躇,落胆,励まし,厳しさ,柔和さ,興奮,慰安,驚かせる,期待に満ちる,その他。同様に,そのような心の状態に含まれる,外的なできごとの内的な反響。しかしそのような心の動きの動機そのものではない。危険が除かれた喜びでも, 危険そのものでも,怖れを呼び起こす危険の種類でもない。確かに激しい感情を表すが,しかしやはりこの激情の,嫉妬かねたみかというような心的な種類ではない。道徳的特性や虚栄心や知性を音に移すこと,あるいは全く抽象的な概念,真理や正義などをそれによって述べようとすることも同じぐらい無駄である。例えば,貧乏だが充足している/S.13/男,を音楽で描写することができるなど考えられようか。心の部分である充足感は音楽になりうる。しかし,貧乏が残っている。ここで重要なのは「貧乏であるにもかかわらず充足している」という倫理的問題なのだ。これは,「貧乏」というのが現世的,社会的状態の一つの形で,永遠の調和のうちには見出せないものであることから来ている。音楽は鳴り響く宇宙の一部に過ぎないのだ。

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ここに私はたくさんの副次的な考察を結び付けることができる。現代の劇場音楽の大部分は失敗している。というのはそれは,舞台上で起こる出来事の間,扱う人物の心の状態を支えるというその本来の使命を追求する代わりに,その出来事を繰り返そうとしているからである。舞台が雷雨の幻影を装うなら,この出来事は目によって詳しく知覚される。しかしほとんどすべての作曲家は雷雨を音で描こうと努力するのだが,それは単に無用で弱い繰り返しであるだけでなく,むしろ彼らの使命の不履行である。舞台上の人物は雷雨によって精神的に影響を被るか,あるいはより強く注意を奪う物思いのためにその心は惑わされずとどまる。雷雨は音楽の助けがなくとも見えるし聞こえる。しかし,その間に人間の心の中で進む,目に見えず耳にも聞こえないものを,音楽はわかるようにすべきなのである。

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さらに,音楽が面倒をみる必要のない,「目に見える」舞台上の心の状態もある。 こういう劇的状況を想定しよう。/S.14/。陽気な夜の一団が歌いながら遠ざかって行き,視界から消える一方,前景では言葉少ない激しい戦いが戦われている。ここで音楽は,もはや目には見えない陽気な一団を,続いている歌によってあるように感じさせねばならない。前の2人がしていること,それによって感じられることは,それ以上なんの説明がなくてもはっきりわかるから,音楽は,演劇的に言うと,そこに関与せず,悲劇的な沈黙をやぶらないでいるべきである。

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ある劇的に動いた場面によって到達した気分を,一つの完結した曲の中で要約し,終える(アリア)という古いオペラのやり方を,私は条件付きで正当なものと見なす。―ことばと身振りは,音楽によって多かれ少なかれみすぼらしくレシタティーフ的に従われつつ,筋の劇的な進行を伝える。休止点に達すると音楽は再び主たる座につく。それは,人が今信じさせようとしているほどには皮相的なものではない。しかし,表現の嘘臭さと衰亡に導いたのは,「アリア」の頑迷な形式そのものである。

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音楽における演奏は,音芸術そのものがそこから降りてきた,あの自由な高みに由来している。音芸術に地上のものとなってしまう危険が近づいている場合,演奏がそれを引き上げ,元の「浮遊する」状態にしてやらねばならない。

音楽作品の記譜,書き留めることは,当初は即興を記録し再現するための独創的な手段であった。しかしそれは肖像画の生きたモデルに対するような関係である。演奏者は/S.15./記号の硬直性を再び解きほぐして始動させねばならない。―

しかし立法家たちは,演奏家が記号の硬直性を再現することを求め,記号をより尊重するほど再現が完全であると見なす。

作曲家が記号によってやむをえず彼の霊感から失った(注)ものを,演奏者は自分のものによって復元すべきである。

立法家たちにとっては記号そのものが最も大事なのであり,どんどんそうなっていっている。新しい音芸術は古い記号から導き出されるだろう,― それは今や音芸術そのものを意味しているのだ。

もしそれが立法者の権限のうちにあるならば,同じ音楽作品は,誰によってどのような状況で演奏されようとも,常に同じテンポで鳴り響かねばならない。

しかし,神の子の浮遊し広がろうとする本性が自分に逆らうことは不可能である。それが求めるのは逆である。すべての日は前の日とは違って/S.16/,しかし同じ朝焼けとともにはじまる。―偉大な芸術家は自分自身の作品をもっと多様に演奏する,すぐにそれを作り替え,加速し,また引き止める ― 記号には移し替えられなかったように ― そしてつねに,その「永遠の調和」に与えられた条件に従って。

すると立法家は不機嫌になって創造者に彼自身の記号を指摘する。今日そうであるように,立法者は正しく覚えているのである。

注: どれほど記譜法が音楽におけるスタイルに影響を与えるか,ファンタジーを縛るか,どれほどそこから「形式」が形成され,形式からは表現の「保守主義」が発生したか,わたしにはこの典型的な例として思い浮かぶE.T.A.ホフマンにおいて,それは強烈に現われ,悲劇的なやり方で復讐している。

 この風変わりな人物の,夢のようなものの中に没頭し,超絶的なもののなかに耽る,頭の中の考えは,彼の書いたものがしばしば真似のできないやり方で明らかにするように,それ自体夢のようで超越的な音芸術においてのみまさしくふさわしい言語と効果を見出したに違いないと推論されるのである。

 神秘のとばり,自然の内なる響き,自然を超えたものの戦慄/S.16/,夢うつつの影像の薄暗い漠然としたもの――彼が正確なる言葉をもってすでにとても印象深く叙述したすべてを,彼は音楽をもってしてはじめて十全に生き生きと生ぜしめたと考えざるをえない。それに反して,ホフマンの最上の音楽作品と,彼の最悪の文学的著作を比べると,悲しいことに,拍子や楽節や調といった,彼の時代の一般のオペラの様式が従っていた因習的なしくみが,詩人をペリシテ人にしてしまったことに気付くだろう。しかし彼にどれほど音楽の別の理想が浮かんでいたかを,我々は作家自身の,多くの,しばしば強調された発言から察知する。

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「記譜」(「記述」)は私を,目下まったく誤解されている,ほとんど屈辱的な概念である,編曲へと導く。私が「編曲」によって引き起こした反発,しばしば分別のない批評家が私の中に起こした反発は,私をしてこの点について明確にしておこうという試みをさせた。私がこれについて最終的に考えることというのは,あらゆる記譜はすでにある抽象的な着想の編曲であるということだ。ペンがそれを捕えた瞬間,考えは元の姿を失う。着想を記録したいという意志がすでに拍子と調の選択を前提としている。作曲家が決めなければならない形式と音響手段はさらに道筋と限界を定める。/S.17/

それは人間におけるのと似ている。裸で,まだ素質もはっきりせず生まれて,彼は選ぶ人生行路を決める,もしくは与えられた瞬間に選ぶよう追い立てられる。しかし着想についても人間についても,壊れないたくさんの独創的なものが,なお残るかもしれない。しかしそれらは決定の瞬間からあるグループの型に押し込められる。着想は一つのソナタか協奏曲かに,人間は兵士か僧侶だかになる。これは元のものの編曲の一種である。この第一の編曲から第二のそれへは,比較的短く重要でない一歩しかない。しかし一般には第二のものについてばかり騒がれる。ここにおいて見逃されているのは,ある編曲は元の表現を破壊するのではなく,このものの損失は何によっても生じないということである。―

ある作品の演奏もまた一つの編曲であり,これは非常に自由に振る舞うかもしれないが,決してオリジナルをすっかりなくしてしまうことはできないのである。

― なぜなら音楽芸術作品は,その鳴り響きの前にもそれが鳴り終わった後にも,完全に,損なわれることなくそこに存在しているからである。それは同時に時間の内と外にあり,その存在は他所では捕捉しがたい時間の理想の概念の,我々に捕捉可能な表象を与えうるものである。

それはそうと,ベートーヴェンのほとんどのピアノ作品は,管弦楽作品の編曲のように聞こえる。シューマンのほとんどの管弦楽作品はピアノからの改作のように ― そしてある意味そうでもある。

奇妙なことに,「書かれたものの信奉者たち」において変奏曲形式は高く評価されている/S.18/。これは不思議なことだ。なぜなら変奏曲形式は,自作でない主題に基づいて作られているならば,完全な一連の編曲を呈するものであり,それも敬意を欠いているほど才気豊かな性質であるからである。

つまり編曲は価値が無い,オリジナルを変えるから。そして変奏は価値がある。オリジナルを編曲するにもかかわらず。

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"Musikalisch"(音楽的)というのはドイツ人に属する概念であり,語の使用そのものがこの意味転移においては他のどの言語にも見出せない。それは,一般的な文化にではなくドイツ語に属する概念であり,その名称は不適当であり翻訳不可能である。「詩的」は詩に,「物理学的」は物理学に,そして「音楽的」は音楽に由来する。私が「シューベルトは最も音楽的な人間の一人であった。」と言うならば,それは私が「ヘルムホルツは最も物理学的な人間の一人であった。」というのを同じことである。音楽的なものは,リズムと間において響くのである。戸棚も「音楽的」でありうる,もしそれが「チャイム Spielwerk」を含んでいるなら(注)。比喩的な意味では「音楽的」はさらに耳に快い意味である。

注: 音楽的と呼べる唯一の種類の人々は歌手であろう。なぜなら彼ら自身が鳴り響くことができるからである。同様に,あるトリックで誰かが彼に触れると音を発する道化師はにせの音楽的人間と呼ぶことができる。

「私の詩句はあまりに音楽的すぎて,それらをさらに音楽に乗せることはできない。」と,かつてある有名な詩人が私に言った。

「よく調律されたリュートの法に従い,
魂たちは音楽的に動きつつ,」/S.19/

と,E.A.ポオは書いた。結局,それが音楽のように響くのであれば,「音楽的な笑い」について全く正当に語ることもできるのである。

派生的に,そしてほとんどそればかり使われるドイツ語の意味では,音楽的な人間とは,この芸術の技術的な部分を聞き分け感じることによって,音楽への理解を表明するような人のことである。技術的な部分として私がここで考えているのは,またもやリズム,ハーモニー,イントネーション,声部をたどること(Stimmfuerung, E:part-leading),テーマ技法である。この中で,多くの微妙なものを聴き取り,再現することができれば,それだけ彼は音楽的であると見なされる。

音芸術のこれらの要素には大きな重要性が置かれているので,「音楽的なこと」は当然最高に大切なこととなる。それゆえ,技術的に完璧に演奏する芸術家は,最も音楽的な演奏家とみなされなければならない。しかし「技術」は単に楽器のメカニック的な熟達と思われているので,「技術的」と「音楽的」は対立するものとされている。

事態は,ある音楽作品そのものを「音楽的」(注1)と呼んだり,あるいはベルリオーズのような大作曲家について,彼は十分に音楽的ではなかったと主張したりするにまで至っている(注2)。「非音楽的である」という言葉は最も強い非難を伝える。このように烙印を押されたら,その対象は無法者となるのである(注3)。

注1:「しかしこれらの作品は非常に音楽的だ」かつてあるヴァイオリニストは,私があまりにつまらないと思った4手の小品について述べた。

注2:「私の犬は非常に音楽的だ。」大まじめでこういわれるのを私は聞いたことがある。この犬はベルリオーズよりも優れているのであろうか。

注3:それは私自身をも見舞った運命である。

音楽の喜びに対する感覚が普遍的であるイタリアのような国では,この区別は不必要なものとなり,対応する用語はその/S.20/言語の中に存在しない。音楽への感覚が人々の中に生きていないフランスでは,音楽家と非音楽家がいる。残りの人々のうちある人々は,「aiment beacoup la musique 音楽がとても好き」であったり,「ils ne l'aiment pas それが好きではない」人もいる。ただドイツでだけ,「音楽的」であるということ,つまり言うなれば,単に音楽への愛を感じるだけでなく,とりわけ技術的な表現方法に関して音楽を理解し,その規則に従うこと,が名誉にかかわる問題となっている。

浮かんでいる子供を1000の手が支え,よかれと思ってその歩みを監視する。飛び上がってしまわないように,そして重大な転落から守られ続けるように,と。しかしそれはまだとても若く,そして永遠なのである。/p.21e/ それの自由の日は来る。それが「音楽的」であることをやめたときに。

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創造者はいかなる伝統的な法をも,誠実と信義をもって受け取るべきではない。また,それは彼に,自分の創造的な試みを,最初から,その法と対比される例外として見るべきではない。彼自身の事例のためには,彼はふさわしい自分自身の法を探し出し,作るべきである。そしてその法は,一度申し分なく適用した後は,次の仕事において自ら繰り返しに陥ってしまわないように,廃棄しなければならない。

創造者の使命は法を立てることにあるのであり,法に従うことにあるのではない。与えられた法に従う者は,創造者であることを止める。

創造力は,伝統から自由になればなるほど目立つ。しかし故意に規則を避けることを創造的な力に見せかけることはできないし,それどころか生み出すものはより少ないのである。

真の創造者は,根本的に,完全をのみ追求する。そしてこれを彼自身の/S.21/個性と調和させることにより,新しい法が故意にではなく生じるのである。

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我々の音の領域があまりに狭くなり,その表現の形があまりに決まりきってしまったせいで,今日,何か別の有名な動機をそれにかぶせて合わないような動機というのは一つもなく,それは最初のものと同時に演奏することができるほどである。つまらぬことで(注)脱線してしまわないために例をあげるのはやめておくが。

注:一人の友人と私はそのようなつまらぬ遊びにふけったことがある。冗談半分で,どれほど多くの有名作品が第9交響曲のアダージョの第2主題の型に従って書かれているかを確かめるために。すぐに我々はまったく異なる種類の15ほどの類似品を集めることができたが,それらの中には芸術の最低の種類のものもいくつかあった。そしてベートーヴェン自身:―「第5」のフィナーレの主題は「第2」でアレグロを導く主題と異なっているだろうか?―あるいはピアノ協奏曲第3番の主要主題と,短調である以外に?

我々の今日の音楽の中で,芸術の本質に最も近づいているものは,休止とフェルマータである。偉大な演奏家,即興者たちは,これらの表現手段をどのように,より高貴で十分な程度に使うか知っている。二つの楽章の間の張りつめた沈黙―この環境ではそれ自身音楽である―は,より決定的な,しかしながら柔軟性には欠ける,音よりも,より遠く予感させることができる。

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我々が「調性システム Tonsystem」と呼んでいるものは「記号」に過ぎない。永遠なるハーモニーのいくらかを把握するための巧妙な工夫だ,かの百科全書的作品の貧弱な袖珍版だ。太陽の代わりの人工照明だ。―/S.22/人々がいかにぽかんと口を開けて,ホールの輝かしい照明に見とれているのに気づいたことがあるだろうか。彼らは百万倍も明るい真昼の太陽の光には決してそんなことをしないのだ。―/p.23e/

そして音楽においても,記号は,それらが表すべきでありながらただ暗示することしかできないものよりも重要になった。

「3度」「5度」「オクターヴ」が全くどれほど重要であることか! 「協和音」と「不協和音」を我々はどれほど厳密に分けることか−不協和音は存在することが全く不可能である領域において!

我々はオクターヴを12の等間隔の音程に分けた。なぜなら我々は,なんとかそれを扱わねばならず,そして我々の楽器を,それらの上や下や間には絶対行けないような風に作った。特に鍵盤楽器は,我々が他のものを全く聴けないように,我々の耳を徹底的に教え込んだ。しかし自然が創造したのは無限の階梯なのだ!-無限! 今日誰がそれをまだ知っているだろう。(注)

注:「等間隔の12音の平均率は,すでに1500年頃から理論的には議論されていたが,1700年の少し前になるまで原則としては確立(アンドレアス・ヴェルクマイシターによって)されなかったが,オクターヴを12の等しい部分(半音,ゆえに「12半音システム」)に分割し,それによって平均された価値が獲得される。いずれの間隔も完全に純粋ではないが,すべてがかなり実用的である。(リーマン音楽辞典)」このように,芸術における熟練職人アンドレアス・ヴェルクマイスターによって,我々は,すべてが純粋でなく,しかしかなり実用的である12半音システムを手に入れたのである。しかし,「純粋」とは,「純粋でない」とは,いったい何だろう? 我々の耳が調律の狂ったピアノを聴く。するとその間隔は「純粋で,しかし実用的ではない」ものになっているかもしれないが,それは我々にとって純粋でなく聞こえる。如才ない「12半音システム」は,必要上のやむをえぬ手段なのに,我々は,その不完全性を懸命に保持するのだ。 /p.24e/

そしてこの12進法のオクターヴのうちに,我々は一連の固定された間隔を区画した。/S.23d/その数は7つ。そしてその上に我々の音楽芸術全体を築いた。私はどう言っただろうか−一つの系列? そんなような二つの系列だ,片足に一つずつ。長調と短調の音階。同じ間隔の系列を我々の12半音階のハシゴの別の段からはじめれば,新しい調(Tonart)が得られる,それどころか未知のそれが! いったいどのような,無理やり縮小されたシステムをこの最初の混乱(注)がもたらしたかは,法典で読むことができる。ここではそれを繰り返したくない。

注:これは「和声学」と呼ばれている。

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我々は24の調を教える。2つの7[音]系列の12倍だ。しかし我々が使えるのは実際には二つだけだ。長調と短調である。他はすべて転位にすぎない。それぞれの転位によって異なった性格が生じるのを人は聞こうとする。しかしこれは欺瞞である。イングランドでは,高い「コンサート・ピッチ」が支配的で,非常に有名な作品も,その効果を変えることなく,書かれたのより半音高く演奏される。歌手たちはアリアを歌いやすいように移調する。前の曲や後ろの曲は移調しないままで。

歌曲作家が自分の作曲を3つの異なる高さの記譜で出版することは珍しくない。それらの作品は3つの版すべてにおいて完全に同一である。/p.25e/

知っている顔が窓から見えたら,1階から見ようが3階から見下ろそうが同じなのである。

もし人が,見える限りの地域を何百メートルか上げたり下げたりできたとしても/S.24d/,その地方の景色はそれによって何も失うこともなければ得ることもない。

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長調と短調二つの7音の上に,音芸術全体が立てられている。―一つの制限はもう一つのそれを要求する。

この両者のそれぞれには,特定の性格が帰せされ,人はそれを,聴くと対立的なものとして学び,教えてきた。そして徐々にそれらは記号の意味を獲得した。―長調と短調―マッジョーレとミノーレ―満足と不満足―喜びと悲しみ―光と影。和声の記号が,バッハからヴァーグナーまで,さらに今日,明後日に至る音楽の表現に垣をめぐらせた。短調は,今日も,200年前と同じ意図で使われ,我々に同じ作用を及ぼす。今日,葬送行進曲を作曲することはもはやできない。なぜならそれはすでに,しっかりと(einmal fuer alle)存在するからだ。最も無教養な素人でさえ,葬送行進曲―どれかの!―が聞こえてくるや否や,何がその後に待ち受けているか(was ihn erwartet?)知っている。素人でさえも,長調と/p.26e/短調の交響曲の区別をまず感じる(fuelen ... voraus)。我々は長調と短調によって支配されているのである。我々は二つのスリッパの下にいるのだ。

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人が長調と短調を対立するものとして感じるのは奇妙なことだ。なにしろこれらは二つの同じ顔を持っているのだから。そのときによって,陽気であったり真剣であったり。そしてわずかな一刷毛が一方を別のほうへと変えるのに十分なのである。第一のものから第二のものへの移行は気づかれず,苦もない―それはしばしば,そしてすばやく起こり,両者は互いに識別不能に瞬きはじめる。―ところが我々は長調と短調を,二通りの意味にとれる全体であり/S.25d/,そして「24の調性」が例の最初の二つの11種の転位に過ぎないことに気づけば,我々は自然に,我々の調性組織の単一性に気づくに至る。近親と遠隔の概念は消え去る―それによって,音程と比率(Grade und verhaeltnissen)の込み入った理論のすべても[消え去る]。我々はただ一つの調性を持っているのである。しかしそれは非常にみすぼらしい種類である。

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「調性の単一性」
 ―「あなたの言うのは,もしかして「調性(単数)」と「調性(複数)」が日の光とその色の分解であるという意味だろうか?」
いいや,そういう意味ではありえない。なぜなら我々の音組織,調性(単数)組織,調性(複数)組織全体は,それら全体として/p.27e/,「永遠なるハーモニー」の天の,「音楽」というあの太陽の,分解された光の一つのかけらに過ぎないのだから。

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慣れと怠惰への依存性が人の方法と本性の中に強くあればあるように―存在する生きとし生きるものの本性に対するエネルギーと反発も強くある。自然は,手練手管を持っていて,人間を,発達と変化に対して反抗的な人間を,移送する。自然は永続的に前進し,絶え間なく変化する,だが人間には止まっているようにしか見えないほど,一定の,そして知覚が不可能な動きで。遠くから振り返ってはじめて,彼らは欺かれていたということに気づいて驚くのである。

「改革者」があらゆる時代の人々にいらいらをかきたてるのは,彼の変革が急激に過ぎるため,そしてなにより,それが知覚可能であるためである。改革者は―自然と比較して―/S.26d/駆け引き上手ではなく,彼の変革が通用するようになるのが,その独力でなしとげられた跳躍に,時代がその巧みな気づかれないやり方で再び追いついたときであるということは,全く筋が通っている。しかし,改革者が時代と同じ歩みをして,他の人々がその中に取り残されたという場合もある。そして彼らは,怠けていた分の距離を跳ぶことを強制され,そのために鞭打たれねばならない。私の思うに,長調と/p.28e/短調,そしてそれらの転位関係,「12半音組織」は,そのような取り残されの例を示している。

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7音系列の間隔が別のやり方でどのように配列できる(分ける)かを,すでに何人かの人々が感じていることは,いくつかの孤立した時点であらわれている。リストにおいて,新しくはドビュッシーとその仲間において,そしてR.シュトラウスにおいてさえも。衝動,憧れ,才能ある刺激がそこから物を言う。しかし私には,この高められた表現手段の,意識的で組織化された紹介は,彼らにおいて作られてはいないように思える。

私は,7音系列の移調(Abstufung)のすべての可能性を得ようと試み,[音の]間隔を低めたり高めたりすることによって,113の異なる音階を確認するに至った。この113の音階(C-Cのオクターヴ内の)はよく知られた「24の調」の大部分,それに加えて,特有の性格をもつ一連の新しい調をも包含する。しかしそれによって宝庫は枯渇しない。なぜなら,この113の一つ一つそれぞれの「移調」も,さらにこのような調の二つをハーモニーやメロディにおいて混合することも,同じように我々の自由であるからである。/S.27/

c-des-es-fes-ges-as-b-c という調(Tonart)は,c をその基音としてとるならば,ニ短調の音階(Tonleiter)とは著しく異なって響く。もしこれに対して通常のハ長調三和恩をハーモニーとして土台にするならば,新しいハーモニーの感覚が生まれる。しかし同じ音階がイ短調,変ホ長調,ハ長調の三和音によってかわるがわる支えられるのを聞いてほしい。異種の美しい音調への最高にうれしい驚きを抑えることはできないだろう。

しかし立法者はこのような音の連なり c-des-es-fes-g-a-h-c // c-des-es-f-ges-a-h-c // c-d-es-fes-ges-a-h-c // c-des-e-f-ges-a-b-c // あるいは悪くすると c-d-es-fes-g-ais-h-c // c-d-es-fes-gis-a-h-c // c-des-es-fis-gis-a-b-c をどこに組み入れることができようか。

それによって,メロディあるいはハーモニーの表現のためのどのような富が耳に開かれるかはすぐには見通しがつかない。しかし,たくさんの新しい可能性が疑いなく想像され,最初の人目で知覚できる。

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あらゆる調の単一性は,この叙述によって決定的に述べられ,基礎付けられたであろう。嗜好,感覚,意志という3つの鏡をもつ部屋の中に12の半音を入れて万華鏡のようにごちゃごちゃに振る。今日のハーモニーの本質である。

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今日のハーモニーの,であって,長い間にわたってではない。なぜならすべては革命と,あの「永遠」への次の一歩を告知しているからである。我々はもう一度,そこにおいては,オクターヴの階梯が無限であることを思い浮かべ,ほんのわずかだけ/p.30e/無限性へと我々が近づこうと切望しよう。三分音は/S.28/いくらか前から戸を叩いているが,我々はその申し込みをまだ聞き流している。私がしたように,わずかであれそれについて実験し,―のどであれヴァイオリンであれ―一つの全音のあいだに,等間隔で離れた二つの中間音をはさみ,耳と[音程の]命中を訓練した人は,三分音は, 調子の狂った半音とは混同され得ない,きわだった性格をもつ,完全に独立した音程であるという結論に達するであろう。これは,一時的に全音音階に基礎を置いていると思われる,洗練された半音階である。我々がそれをいきなり導入したならば,そうして半音階を否定したら,「短三度」や「完全五度」は失われ,この損失は,「18三分音組織」の相対的な獲得よりも強く感じられることだろう。

しかしそのために半音を処分してしまう明白な理由はない。それぞれの全音に対して半音を保存しておけば,我々は,元のそれから半音高い,全音の第2のシリーズを得ることになる。この第2の全音列を三分の一に分割してみると,下側のそれぞれの三分音に対応した半音が上側に生じる。

それによって実際には六分音組織が成立し,そしていつか六分音も/p.31e/議論されるということは信じてよい。しかし,私が提案したばかりの音組織は,まずは半音を捨てることなく,三分音によって聴覚を満たすべきである。

これをまとめる。我々は,互いに半音隔たった2つの三分音列を,または,通常の12半音列をそれぞれ三分音の間隔で三回,設定する。

とにかく区別するために,最初の音をC,そして次の二つの三分音をCis及びDes,最初の半音は(小文字の)c,そしてそれに/S.29/続く三分音をcis及びdesと呼ぼう。―下の表がすべての不足分を説明する。

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記譜法の最初の打開策は,6本の線を引き,線は全音に,線間は半音に使用することである。

そして三分音は♭と♯によって表す。/p.32e/

記譜法の問題は主要なことではないと考えている。それに対して,これらの音をどのようにして,また何によって作り出すかということは,重要で差し迫った問題である。私がこの論文を書いている間に,この問題を簡単な方法で解決する直接的で確実な報告を,アメリカから幸運にも受け取った。それはタディウス・ケーヒル博士の/S.30/発明品(注)についての報告である。この人は,電流を,正確に計算された不変の数での振動に変えることを可能にする巨大な機械を組み立てた。音の高さは振動の数次第であり,この機械はあらゆる希望の数に「設定」されうるから,これによってオクターヴの無限の段階は単に,四分円の目盛りに対応するレバーの操作によって[設定される。]

誠実な,長い実験だけが,継続した耳の訓練だけが,この慣れない素材を,育ちつつある世代と芸術によく従うものとするのである。(s.31)

注:「古い世界のための新しい音楽,タデウス・ケイヒル博士のダイナモフォン,科学的に完全な音楽を作るための驚くべき電気的発明,レイ・スタナード・ベイカー記」,『マクルーアズ・マガジン』1906年7月,Vol.XXVII, No.3 ("New Music for an old World. Dr. Thaddeus Cahill's Dynamophone, an extraordinary electrical Invention for producing sscientifically perfect music by Ray Stannnard Baker", Mc Clure's Magazine, July 1906. Vol.XXXII, No.3)―

この卓抜な音響発生器について,ベイカー氏は次のように報告する。…… あらゆる楽器における発声の不完全性の認知を,ケイヒル博士は (長い注。後略)

どのようなすばらしい希望と夢のような観念がそのために目覚めることか! 夢の中で「浮遊した」ことのないものがいようか? そして/p.33e/自分がその夢を体験したと固く信じない者が? ― とにかく,音楽をその原存在に還元させることを企てよう。音楽を建築学的,音響学的,美学的ドグマから解き放とう。音楽をハーモニー,形式,音響における純粋な創造(Erfindung)と感覚(Empfindung)(なぜなら創造と感覚はメロディーだけの特権ではないから)であらしめよう。音楽に虹の道をたどらせ,雲と,太陽の光をさえぎる競争をさせよう。音楽を,人間の心に映ってそこから再び照り返した自然とは別のものにしよう。音楽は鳴り響く大気であり,大気を越えて上方に達する。人間そのものにおいても/S.32/,宇宙空間におけるのと同じように普遍的で完全である。なぜなら音楽は,緊張度において弱まることなく,集結したり,流れ散ったりしうるからである。

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ニーチェはその著書『善悪の彼岸』においてこう言っている。

「ドイツ音楽に対しては,私はたくさんの警戒が必要だと思っている。もしある人が,私と同様,最も精神的なことにおける,また最も感覚的なことにおける回復の偉大な学校として,[また,]勝手気ままで自分を信じる存在の上にひろがる,抑えきれない太陽の豊かさ及び浄化として,南方を愛しているとしよう。そのような人は,ドイツ音楽に対して警戒することをいくらか知るだろう。なぜならドイツ音楽は,そのような人の趣味を再び損なうことによって,その人の健康もいっしょに損なうからである。
そのような,生まれではなく信念によってそうである南方人は,音楽の未来を夢見るならば,北方の音楽からの解放をも夢みなければならないし,より深く力強く,おそらくはより邪悪で,より神秘的な音楽への序奏を聞いていなければならない。その音楽は,超ドイツ的な音楽であり,青く官能的な海や,地中海の空の明るさを見ても,すべてのドイツ音楽とは違って,消え入りもせず,黄ばみもせず,色あせもしない。その音楽は超ヨーロッパ音楽であり,砂漠の褐色の日没を前にしても正しさを保ち,その魂は椰子の木に近く,偉大で美しく孤独な猛獣たちのもとで,くつろぎ,また歩き回ることを知っている。――
私はある音楽を心に描くことができる。その音楽のもっともまれなる魅惑は,それが/S.33/善いことと悪いことを(注)なにも知らないこと,ただ恐らくは何か船乗りの郷愁のようなもの,何か金色の影や情愛のこもった弱さのようなものが,ときおりその上を走り去るということにおいて存在する。その芸術は,滅びつつある,ほとんど理解しがたくなってしまった,道徳的な世界の色彩が,はるか遠くから逃げてくるのを見る。そして,そのような遅れてきた亡命者たちを受け入れるに十分なほど客好きで,深い芸術である。―」

注:ここでニーチェは矛盾を犯してしまっている。前に彼は,おそらくは「より邪悪な」音楽を夢見ているのに,今度は「善いことと悪いことを全く知らない」音楽を思い描いている。― ともあれ,私にとってこの引用は,後者の意味を意図してのことである。

そしてトルストイは,『ルツェルン』にこう書いたとき,風景の印象を音楽の感覚にしている。

「湖にも山にも空にもただ一つのまっすぐな線,一つのまじりけのない色,一つの静止点もない ― 至るところに運動,不規則,恣意,多様性,絶え間ない陰と線との交流/p.35e/,そしてつまりは美の静寂,柔和さ,ハーモニー,そして必然性である。」

この音楽はいつか到達されるのだろうか。

「誰もが涅槃に至るわけではない。しかし最初から天分があり,学ぶべきことすべてを学び,経験すべきことすべてを経験し,放棄すべきものすべてを放棄し,発達させるべきものすべてを発達させ,実現すべきものすべてを実現する者 ― 彼は涅槃に至る。(注1)」(カーン『インド仏教史』)

涅槃が「善悪の彼岸」にある国であるならば,ここにはそこに至る一つの道が示されている。門までは。人間と永遠とを分ける ― もしくは俗世の騒ぎを中へ入れるために開く格子まで。その門の彼方に響くのは音楽だ。音芸術ではない(注2)。― おそらく,それを見つけるには,我々自身が地上を捨てなくてはならない。しかし,地上の束縛を途中で脱ぎ捨てることを知った旅人にのみ,それは開くのである。―

注1:申し合わせたようについ最近ヴァンサン・ダンディ氏が私に手紙をくれた。「到達することはできずとも,近づくことは許される理想のほうを常に見ているために,人生の些事や卑小なことは捨ておいて……。」

注2:こういう話を読んだ覚えがある。リストは『ダンテ交響曲』を「地獄」と「煉獄」の2楽章に制限した。「なぜなら,我々の音楽言語は天国の至福には不足であるから。」

1906年11月

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