大木正夫の「人間をかえせ」と
ショスタコーヴィチの「バービィ・ヤル」

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 大木正夫の『人間をかえせ』というカンタータのLPを聴きました。これは有名な峠三吉の詩に付けられた曲で,タイトルから想像できる通りかなり重い曲なんですが,正直なところ,聴く前に想像していたよりずっと良かったです。単に反戦とかのメッセージを伝えようというだけにとどまらず,音楽的にも全然妥協していなくて,非常に充実した曲と感じました。

 ところでこの曲の第1部第3章は「眼」という題がついています。大変印象的な楽章なんですが,ここで男声合唱をバックにバスのソロが歌うようなところがあります。この楽章,響きの感じや印象が,ショスタコーヴィチの「バビ・ヤール」の第4楽章「恐怖」にとてもよく似てるのです。

 似てると言っても,メロディラインが直接引用されてるわけではありませんし,そもそも「バービィ・ヤル」の楽譜なんて日本ではかなり後まで手に入らなかった(日本初演は1975年)はずなので,私の気のせいで,きっと偶然だろうと思ってたんですが,調べてみると,ちょっと興味深いことがわかりました。

 「人間をかえせ」第1部は1961年(第2部は1963年)作曲。そして「バビ・ヤール」は翌年の1962年作曲。その直前の1960年には,日本現代音楽協会(現音)が「ソ連作曲家同盟」との作曲家交歓を開始しています。そして,なんと「人間をかえせ」の作曲者大木正夫は1962年3月にソビエト作曲家同盟の招きで日本現代音楽協会代表として訪ソしてるんですね。このときに一緒に行った間宮芳生はショスタコーヴィチといろいろ話したということを帰国してから話している(*1)ので,日本人訪ソ団ともショスタコーヴィチはかなり話してるはずです。ちなみに「バービィ・ヤル」の5つの楽章の完成の日付(*2)は1962年の,それぞれ 3/27 及び 4/21; 7/5; 7/9; 7/16; 7/20 です。

 もう何が言いたいかおわかりと思うんですが,ひょっとして大木氏がその時に「人間をかえせ」第1部のスコアを持っていってて,それに強い印象を受けたショスタコーヴィチの「バービィ・ヤル」に影響を与えたということはありえないでしょうか? 出発点が「なんとなく似てるような気がする」なんで根拠薄弱なことはなはだしいんですが,どうも偶然とは思えないのです。

 ショスタコーヴィチは一度も来日していないんですが,日本に何の関心も持っていなかったかというとそうでもないようです。1945年8月,ショスタコーヴィチ一家はイヴァノヴォの作曲家の「創造の家」に滞在してました。その頃一緒にいた批評家 Daniil Zhitomirskii のこんな証言があります(*3)。

 「・・・毎朝ドミートリー・ドミートリエヴィッチ(以下 D.D.) はここで第9交響曲に取り組んでいた。再び私の日記から何行か引用しよう。

―― 2,3日の間,誰も夕食にはいなかった。D.D. とニーナ・ヴァシーリェヴナ(ショスタコーヴィチ夫人で物理学者)はモスクワへ発ってしまった。私は彼らとイヴァノヴォ駅で会った。帰る道すがら,D.D.はまず私に「ウラニウム」爆弾について,広島の信じがたい恐ろしい破滅について話した。ニーナは大きな権威をもって,原子分裂の重大さについて説明した。D.D.は沈鬱で黙り込んでいたが,同時に内心の動揺を隠せなかった。彼は短くせっかちな語句で話した。しゃがれた,憔悴したような声の調子,うつろな眼差し,青ざめた顔色が彼の苦悩を伝えていた。そして我々は黙ったまま彼の小さなダーチャまで歩いた。私は広島について,時におけるこの瞬間の複雑さについて(戦争が終わってくれたにもかかわらず)混乱のうちに考え,そして近未来が何を準備しているのかと怪しんだ。私は自分の落胆を口に出そうとしたが,D.D.は目を頭上のある点から動かさず,すばやく私の嘆きを断ち切った。『我々の仕事は喜ぶことだ。』――

 私はこの返答をずっと記憶している。これには,ある種の宿命論とともに。抗議の火花がこめられている。ショスタコーヴィチは,しばしば彼に圧迫的な影響を及ぼす,「求められるもの」に対して宿命論的な態度を育ててきていた。しかし実際には,第9交響曲の仕事において彼はそれ以上自分自身をこの圧迫に服従させることはできなかったのだ。・・・」

 当時ショスタコーヴィチは,第9交響曲として声楽つきの大交響曲を書いていると公的には語っていました。これはまるっきり嘘じゃなくて,1944/45年の冬には第1楽章の展開部あたりまでできていて,何人かの音楽家は実際に最初の部分を聴いた(おそらく作曲者のピアノでしょう)のだそうです。それは「力のみなぎる勝利の英雄的な長調」だったと言います。しかし,これは中断されてしまい,実際発表されたのは御存知の通り二十数分の小交響曲なわけです。そしてこの第9交響曲の第2,3,4楽章の完成の日付は 8/12,20,22 です(*2)。第1楽章ができたのはそれ以前ですし,スケッチはさらに前からあるようですが,この曲を第9交響曲で発表しようと彼に決心させるのに,原爆投下のニュースが何らかの影響を与えた可能性はあるかもしれません。

 第9交響曲の問題はまた別に考えるとして,ショスタコーヴィチが広島の惨状に強い関心を持っていたとしたら,1962年に訪ソした大木正夫のカンタータにショスタコーヴィチが感銘を受けたとしても不思議ではないと思うのです。そして,スターリン時代の恐怖を描くのにふさわしい表現手段はこれだ,と思ったということも。いやもちろん,出発点が「なんとなく似てるような気がする」なんで根拠薄弱なことは本当にはなはだしいんですが・・・。

*1 仲万美子「心に響き会う往還 ― 日本におけるショスタコーヴィチ受容―」『ショスタコーヴィチ大研究』, 1994, p.265
*2 Derek C. Hulme: Shostakovich, 1991
*3 Elizabeth Wilson: Shostakovich - A Life Remembered,1993, p.177

(2000.1.21)
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