ムラヴィンスキィのショスタコーヴィチ第5

〜1938年録音をめぐって〜


付記1・レコ芸98年10月号の記事について
付記2・レコ芸98年11月号の記事について

今春にBMGから出たムラヴィンスキーの未発表録音集はいずれも興味深かったが、一番の目玉のショスタコーヴィチの5番について書く。なにが貴重かと言って、これは初演(1937年11月)から間もない演奏であるというのがすごい。しかも昔から存在が知られていたSP録音(1938年3〜4月)とは別録音(1938年暮れ〜1939年初頭)で、SPの方も特典盤ながら今回CD化というのはうれしい。ムラヴィンスキーの第5というと、この後は1954年まで録音がないから、一気に演奏史の空白が埋まった感がある。

音質は、今回のCD8枚のうちで一番古いので、さすがに持続性ノイズはあるし、フォルテでは歪むが、予想していたほどひどくはなかった。光学式フィルムに記録されていたためか、昔のソ連映画の音声のような感じ。

演奏だが、まず驚いたのが、フィナーレの第284小節。よく知られているように、楽譜には「ラシドシドミ(F-G-Ab-G-Ab-C)」と書かれているにもかかわらず、ムラヴィンスキーはここを後年に至るまで一貫して「ラシドシラド(F-G-Ab-G-F-Ab)」と演奏している。そして、この初演直後の録音でもそうなのである。同時期のSP録音の方は、まだ特典盤が送られて来ないのでわからないが、自分の作品のリハーサルにはまめに出ていって、相手がどんな大演奏家であろうが細かくダメ出ししていたショスタコーヴィチが、ここだけは楽譜と違う演奏を許していたとしたら不思議なことである。

実は、この曲の早い時期の録音としては、1939年4月のストコフスキー/フィラデルフィアo. というのがある。戦前の録音はムラヴィンスキーの2種とこれだけで、この次は1940年代末のクーセヴィツキィになる。そして、なんとこのストコフスキーもムラヴィンスキーと同じやり方で演奏しているのである! ということは、これはムラヴィンスキィが勝手に音符を変えたわけでなく、初演当時の楽譜では「ラシドシラド」となっていて、後に「ラシドシドミ」に改訂されたのに、ムラヴィンスキーだけは最初の形の方がいいと固執したのではないだろうか。

ちなみに私の手持ちの楽譜では、EULENBURG も BOOSEY & HAWKS も「ラシドシドミ(F-G-Ab-G-Ab-C)」。サンクトペテルスブルクの図書館で初演当時の出版譜を見れば裏づけられるかもしれない。

このストコフスキーの録音は Pearl から復刻されていて(GEMM CDS9044)まだ入手できるはずだ。ストコフスキーには他にエヴェレストのスタジオ録音と、BBC Radio Classsics から出たロンドン響とのライヴ盤があるが、いずれも「ラシドシドミ」である。また、1950年代のムラヴィンスキィ以外の録音、レニングラード・フィルの他の指揮者との録音など、確かめられる他の録音はすべて「ラシドシドミ」であった。つまり「ラシドシラド」を採用しているのはムラヴィンスキィ以外ではストコフスキィの第一回録音のみなのである。

演奏自体は、後年の演奏とはかなりコンセプトの違う部分があった。例えば第1楽章の展開部で盛り上がりが頂点に達する練習番号27(188小節)は Poco sostenuto の指示を無視して煽るし、 フィナーレも、最初から速いテンポを取ってそれを維持する後年のスタイルと違い、楽章冒頭は比較的遅めにはじめて、練習番号108(83小節)あたりから相当激しくアッチェレランドをかけている。

アンサンブルの精度は後年の演奏にくらべるとだいぶ劣る。縦の線が合ってないところが随所にあるし、弦のピッチも揃っていない感じだ。さすがのムラヴィンスキーもやはり30代ではまだ後年ほどニラミが効かなかったということだろうか。(Nifty の FCLA に書いたものを改稿。98.9.4)



[付記]

『レコード芸術』の1998年10月号に、金子建志さんによるショスタコーヴィチの5番についての文章が載っていました。ここで第4楽章284小節の問題が取り上げられています。

ムラヴィンスキィの「ラシドシラド」の件、私は初版がそうなっていて次の版で直されたのかと思っていたのですが、どうやら印刷譜では最初から「ラシドシドミ」になっていて、ムラヴィンスキィは自筆稿から手書きで写譜したスコアを使っていたということのようです。

で、実際ムラヴィンスキィがなぜこの形にこだわったかということは、夫人へのインタビューでも、ムラヴィンスキィの使っていたスコアを見ても結局わからなかったようです。それどころか、レニングラードフィルの首席フルート奏者であった夫人がこの違いに全く気づいていなかったのには驚きました。自分のパートが休みになっているところというのはそんなものなんでしょうか。機会があれば当時の弦の楽員、できればコンサートマスターにも訊ねてみてほしいものです。

ストコフスキーの39年録音についても書かれていますが、「(39年4月に)ソ連で出版されたスコアを直ぐ外国で入手するのは難しかったと思われるので、ストコフスキーも(中略)写譜師による手書きのスコアを用いて振ったのだと推察される。」というのは裏付けが欲しいところです。ストコフスキーの評伝などになにか書いてないものでしょうか。印刷譜が出版されるより前にアメリカにスコアが渡っていたことは、38年にロジンスキが演奏していることから明らかですが。

それからロジンスキ/クリーヴランドの録音は、私はなんとなく戦後のものだと思っていたのですが、これが1942年とは知りませんでした。この年代表記がどの程度信頼できるものか(LP の 米COLUMBIA RL6625 にも Derek C. Hulme の目録にも録音年は書かれていない)はわかりませんが、考えてみればもし初版が「ラシドシラド」なら、この形での演奏がもっとあってもいいかもしれません。

なお、この曲の国外初演について、全集版にはパリの38年6月、パリのサル・プレイエルでの演奏(デゾルミエール指揮!)とあるのに、実際には38年4月にロジンスキ/NBC響が米国で演奏していることが指摘されていますが、ロジンスキの方は放送初演なので勘定に入れられてないのではないかと思います。(1998年9月24日)


[付記2]

レコ芸98年11月号には、10月号の続きが載っていました。今回はなんとカラーページにムラヴィンスキィの使っていたスコアなどが示されていて、それだけでも貴重です。

記事の順番と逆に,先にコーダのテンポの問題について書きます。結論としては,印刷譜の四分音符=188という猛スピードは誤りで,堂々とした88というテンポが正しいということなのですが,これについてはこの論考で非常にすっきり解決したように思います。 それぞれの楽譜の比較による考証もさることながら、メトロノームに188という数字はないという、単純でしかも説得力のある論拠、これまで誰も思い付かなかったのでしょうか。ところで、実は四分音符=188という速いテンポは誤植であろうということは、これまでもマキシム・ショスタコーヴィチのインタビューをはじめ、旧ソ連のアーティストを中心にあちこちで言われていたのですが、「証言」の呪縛にとりつかれた西側の人々はそれを疑っていたわけです。これ、考えてみれば失礼なことですね。

次に、第4楽章第284小節の問題。これについては、DMLの鮫島さんが再びムラヴィンスキィ未亡人に取材したということで、よりはっきりとわかった部分があると同時に、新たな疑問も生じました。まず、ムラヴィンスキィが、印刷譜では「ラシドシドミ」になっているのを知りながら、敢えて「ラド」を通していたことが確認されました。そして、夫人によると、ムラヴィンスキィはこのような場合作曲者に必ず問い合わせるのが習慣であったから、ここも確認したに違いないということです。

さて、もしムラヴィンスキィがこの個所について作曲者に確認を取っていたとすると、ショスタコーヴィチは第5の出版譜に誤りがあることを知っていたことになります。新たな疑問というのは、ではなぜそれを訂正しなかったかということです。金子氏はこれについて「もっと大きな敵と、自分の芸術家生命をかけて戦っていたのだ」としています。

確かに、コーダのメトロノーム記号も訂正するチャンスはあったにもかかわらずそのままになっていることから、ショスタコーヴィチが誤植の訂正にあまり熱心でなかったということは言えるかもしれません。しかし、ほとんどの演奏家が信じていなかった四分音符=188という数字とは逆に、「ラシドシドミ」に関してはムラヴィンスキィを除くすべての指揮者が「間違った」方を演奏していたわけですから事情が違います。しかも、楽譜で訂正していないだけならともかく、ショスタコーヴィチの生前にソ連で録音されたコンドラシン盤(1964年発売)やマキシム・ショスタコーヴィチ盤(1970年発売)でも「訂正」されていないことは無視できません。ショスタコーヴィチは自分の作品が演奏される場合、できるかぎりリハーサルに立ち会ってチェックする習慣があったからです。ですから,もしムラヴィンスキィからの問い合わせでここに誤植があることを彼が認識していたとしたら、訂正しないはずはないでしょう。

従ってこの第284小節に関しては、たとえムラヴィンスキィが作曲者に確認したうえで演奏していたとしても、世間に流布しているやり方が間違いでムラヴィンスキィのやり方がより作曲者の意図に忠実である、とはまだ言えないと思います。やはりこの個所に関しては、なにかムラヴィンスキィ独自の判断が働いていたんではないでしょうか。(98年10月21日)



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