ショスタコーヴィチの第5交響曲のフィナーレ

 ショスタコーヴィチの第5交響曲はいったい何を言おうとしているのか。この単純ながら重要でしかも難しい問題の答えを探してみたい。

 問題がここまでこじれた大きな原因が,有名な『証言』にあることは確かである。それまで,ベートーヴェン的な「闘争から勝利へ」という単純な構成だと考えられていたこの交響曲が実は,「強制された歓喜」だった,とするこの書物は,大きな衝撃をもたらした。 しかし,さらに興味深いのは,この一見大胆な見方がすぐに受け入れられ,まもなくほぼ定説と化してしまったことである。

 これはもちろん,『証言』がショスタコーヴィチの回想録という体裁を取っていた(実際はほぼ偽物に間違いない)ということに原因があるのであるが,それだけではないであろう。実は,ショスタコーヴィチの「第五」の終楽章に対する疑念は『証言』出版以前から存在した。「勝利のフィナーレ」にしてはどうも色調が暗すぎるし,長調のコーダも短すぎる。もし本気で「歓喜」するつもりだったならもっと派手にできたはずではないか。ソ連の批評などでは,「終楽章の出来が悪い」というような言われ方をすることがあるが,終楽章のコーダが「勝利の行進」を表現しているという説明にどこか納得できなかった人は,昔からたくさんいたのである。つまり,『証言』の出現は,全く予想もしていなかった説の登場というわけではなく,なんとなく皆がうすうす感じていたものが,作曲者の回想という権威を与えられて,やっぱりそうだったのかと納得させられたという現象だったというわけだ。

 『証言』が偽書であることがほぼ認められても,「それでもあの本に書いてあることは正しい」という人はなお多い。実際のところ,『証言』の多くの部分はショスタコーヴィチ自身の文章の丸写しなのだから(ソ連で出た『自伝』と読み比べれば一目瞭然),真実味があるのも当然である。ところがそのような部分には属さない「強制された歓喜」云々にもまだ支持者がいるのはそのような背景があったからであろう。

 『証言』に基づく「強制された歓喜」説は,ショスタコーヴィチ自身の言葉であるという権威が失われた今,ヴォルコフという人物が提唱した一つの解釈として以上の価値は認められない。では,この説は現在,第五の解釈としてなお妥当性を持つのだろうか。まずここから検討してみよう。

 実は『証言』の記述は,少し踏み込んで考えると,具体的に何が言いたいのかはっきりしない。そもそも「(作曲者が)強制されて(実際に)歓喜した」のか「(作曲者を含む人々が)強制されて歓喜した悲劇を表現した」のかが曖昧だが,まあ二通りに解釈できるとしよう。私はこのいずれも第五交響曲のフィナーレの説明としては無理があるように思う。

 まず「本当は悲劇的なコーダを書きたかったにもかかわらず,やむをえず明るい終わり方にした」という第一の解釈だが,ショスタコーヴィチは,国策映画の音楽などを大量生産する一方で,交響曲の分野だけは「第五」以降も良心の聖域と見なして妥協を避け続けた作曲家である。その彼が,いくら身の安全のためでも五十分の大交響曲の要である終結を自分の意志に反して曲げたとはやはり考えにくい。そんなことを自分に許すぐらいなら,最初からレーニンやスターリンの言葉を用いた大カンタータでも書いただろう。

 その意味で「強制された歓喜を演じる悲劇を表現した」とする第二説は面白いが,あまりにこじつけくさい。実際のところ,あのフィナーレを「俺たちは喜ばなければならないんだと自分に鞭打ちつつよろよろ行進する人々」などというややこしいものを表現していると聴くには,かなり強い思い込みが必要なのではないだろうか。このような思い込みを形成するのに,『証言』の権威とインパクトはかつてそれなりに力があったわけだが,それらの威力が薄れた現在,この解釈は聴印象との違和感がありすぎる。ニ長調のコーダから聴き取れるのは,控えめではあれやはり何らかの希望の存在であろう。

 しかし,仮にここに希望または勝利があるとしても,その正体はなにか。ショスタコーヴィチの伝記的事実をかなり知っている我々が,昔の素朴な「共産主義の勝利」説に戻ることは難しい。かといって,「人民の敵」であった当時のショスタコーヴィチがそれほど手放しで歓喜できる状況にあったはずはない。そして我々をこの音楽をどのように受け止めればよいのか。「純音楽的な表現」とやらで満足せねばならないのか。

 まず,歌詞のない純器楽交響曲で,少々複雑なメッセージを,「なんとなく複雑そうだなあ」以上に具体的に伝達するというのはかなり困難なことである。ヴォルコフの主張するように,表面上の意味とまったく正反対の意味を伝えるなどというのは至難の業である。そのような場合,純粋な音の動き以外の何らかの方法で観客に知らせなければならないだろう。

 しかし,ショスタコーヴィチは,第五交響曲以前にも,一つの楽想を表面の意味と違う意味で使うという技法を既に使っている。最も明らかな例は『ムツェンスクのマクベス夫人』Op.29の第1幕,カチェリーナが舅ボリスを自ら毒殺しておきながら,近所の人たち の前ではその死を嘆き悲しんで見せる場面である。ここでショスタコーヴィチは,ムソルグスキィ『ボリス・ゴドゥノフ』プロローグ第1場(ノヴォジェーヴィチ修道院の場),民衆がボリスの即位を求める合唱の旋律を使っている。ここで民衆は役人に鞭打たれ,本心でもないことを叫ぶことを強制される。ショスタコーヴィチが,この民衆と,本心でもないのにボリスの死を形式的に嘆いてみせるカチェリーナを重ねていることは明白である。なお,非常に興味深いことに,約30年後の改訂版『カチェリーナ・イズマイロヴァ』では,この部分が全く違う旋律に置き換えられていて,『ボリス』の引用の痕跡は消されている。

 もう一つ,劇音楽『ハムレット』Op.32も重要である。この中でショスタコーヴィチは ドシドラシソララ…というDies irae の旋律を引用している。よく知られているように,この旋律は『幻想交響曲』をはじめたくさんの作品で,「死」を象徴する音型として引用されている。ところが1931-32年,メイエルホリドの影響を受けたアキーモフの過激な演出の『ハムレット』のための音楽(なにしろここでのハムレットはファルスタッフのような陽気な人物で,幽霊その他の事件はすべてハムレットが叔父の王位を奪うために仕組んだことだったという設定らしい)に,20代後半のショスタコーヴィチがそのような陳腐になった表現を使うはずもない。

いずれもちゃんと聴衆にわかるような注釈がある。  したがって,戴冠式の合唱の前に「ノヴォジェーヴィチ修道院の場」という注釈をつけることができた「ボリス」とは事情が全く違うのだ。

 もしショスタコーヴィチが当時から,尖鋭的語法を使わず,最後を長調で派手に終わるというだけの条件を果たせばあとは何をしても自由だということに気づいていたとしたら,。このぐらいの表面的つじつま合わせは天才作曲家ショスタコーヴィチにとってどうってことなかったはずではないか。ということはやはり「第5」はニ長調の終結まで彼の自発的意志が働いた作品と考えるべきだろう。

 第5交響曲のの作品番号は47だが,その一つ前,「プーシキンによる四つのロマンス作品46」の第一曲に「復活」という歌曲がある。作曲年は一九三六年,つまり「マクベス夫人」批判と「第四」撤回の後,「第五」の直前か同時期だ。詩はこう始まる。「未開人の画家がうつろな筆さばきで/天才の絵を塗りつぶし/法則のない勝手な図形を/その上にあてどもなく描いている。(小林久枝訳)」まさに当時のショスタコーヴィチのためにあるような詩だ。彼が当時の本音をこれに託して表現しているのは疑いない。

 さらに大事なのは,この曲が,「第五」の終楽章と音楽的に密接な関係を持っていることだ。開始音型は「第五」と同じ「ミラシド」,しかもニ短調,さらに第三節の伴奏には「第五」終楽章で冒頭主題が戻る直前にハープが奏でるソラソ↓ソ・ソラソ↓ソ・の動機まで現れる。どうも彼はこの曲で「第五」終楽章への注釈をしようとしたらしいのだ。「第五」は,体制の批判を受けた作曲家の真情を吐露した音楽であることをこの短い歌曲は確認してくれる。

 そう考えると,歌曲の第二節以降で「復活」への確信が表明されているのは興味深い。第二節はこう歌われる。「だが異質の塗料は年を経て/古いうろこのように剥がれ落ち/天才の創造物はわれわれの前に以前の美しさをとり戻す。」ここでの伴奏は「第五」中間部の弦を思わせる。そして第三節はこうだ。「かくて苦しみぬいたわたしの魂から/かずかずの迷いが消えてゆき/はじめの頃の清らかな日々の幻影が/心の内に湧きあがる。」つまり現在は「未開人」どもに苦しめられるが芸術の不滅を信じ続けよう,という詩だ。「第五」がハープ動機の後ミラシドの主題が復帰,さらに一悶着あったあと例の「歓喜」に至るのに対し,歌曲の方はハープ動機で静かに終わるという違いはあるものの,「第五」終楽章の内容がこの詩とかなり共通していることは間違いなかろう。

 この「四つのロマンス」には「復活」の他にも「ねたみ深い運命が不幸をかざして/ふたたびわたしをおどしにかかる」「波乱の人生に疲れたわたしは/嵐を冷静に待つ」という第三曲「予感」,「毎日毎年を/私は思いをこめて過ごすのに慣れた/来るべき死の記念日を/その境界を感じることに努めながら」「ところで運命はどこでわたしに死をよこすのだろう」「どこで朽ち果てるのも同じとはいえ/なつかしい故郷の近くで/わたしはずっと横たわっていたい」という第四曲「スタンザ」と切実な詩が並ぶ。音楽もまた「死の歌と踊り」を思わせる沈鬱な響きに終始する。プーシキンという古典詩人を取り上げることでカモフラージュできるのでは,という計算があったにせよ,この時期こんな大胆な作品を書いていたことには驚かされる。当然派手な発表はできない。作曲の翌年は詩人の没後百年にあたったが,ショスタコーヴィチは,予定の十二曲が完成していないから,と発表を拒否し,結局初演は1940年,出版は1960年となった。しかし彼は十五年後の続きの四曲(Op.91)をわずか四日で書いた速筆家,とても信用できない言い訳だ。しかし当然の判断だろう。

ここでもう一度作曲者が自作について語った言葉を読み直してみよう。「わたしの新しい作品は,抒情的英雄的交響曲といってもいいと思う。その基本的思想は,人間の波瀾の生涯とそれを乗りきる強いオプチミズムである。わたしはこの交響曲で,大きな内的,精神的苦悩にみちたかずかずの悲劇的な試練をへて,世界観としてのオプチミズムを信ずるようになることを示したいのである。(ラドガ社の『自伝』より引用)」初演直後「文学新聞」に出た小文だ。これまでは単なる保身用のコメントだと思って見過ごしていたが,改めて読むと,この説明の大部分は「第五」に適確にあてはまることに気付く。「抒情的英雄的」その通り,「内的,精神的苦悩」その通り,「悲劇的な試練」その通り。ということはこれはあながち出まかせでもないらしい。それならば,コーダの部分を指すと思われる「世界観としてのオプチミズムを信ずる」もむやみに保身用の言辞として切り捨ててはいけないだろう。

ここで彼が「勝利」や「歓喜」でなくわざわざ「オプチミズム」という語を選んでいることは注意すべきだ。「オプチミズム」という語は必ずしも現時点における歓喜は意味しない。むしろ「勝利への希望をもつこと」ということだ。つまり「この交響曲は悲劇的な試練に会った人間が,やがて未来における勝利を信じるようになるということを表現している」と作曲家は自ら言っているわけだ。

この作曲者の言葉を踏まえるならば,ニ長調のコーダは「勝利」でも「強制された歓喜」でもなく「未来における復活の幻視」とでも解釈すべきだろう。弦の奏し続けるA音も悲しげなナポリ六度も絶望的な状況の中での勝利の幻影にふさわしいのではないか。「強制された歓喜」ではなく一応は「勝利」なのだから,聴感上の印象と違和感はないし,現実の勝利ではなく,遠い未来かもしれない勝利の幻視だから,このコーダの短さ,晴れきらない暗さの意味もわかる。しかもなにより,歌曲の引用と作曲者のコメントの裏付けがある。悪くない説明だと思うのだがどうだろう。


(大昔某誌の投稿欄に出したものを1998.10.30/2001.3.11改稿。)


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