ショスタコーヴィチの交響曲第12番

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  ショスタコーヴィチの交響曲第12番「1917年」は,一応公的には,ソ連の十月革命を記念しその偉業を称える交響曲であるということになっている。そのため,かつて西側諸国では,ショスタコーヴィチが体制に擦り寄って書いた駄作という評価が支配的であった。さて,1979年に『証言』が出版されると,ショスタコーヴィチのさまざまな作品が,なにか裏の意味を持っているのではないかと探られるようになる。交響曲第12番も例外ではなかった。この傾向は『証言』が偽書であることが(ほぼ)断定された現在も変わっておらず,さまざまな説が提唱されている。

  その中で,(少なくとも日本では)現在かなり支持を得ている見方として,第4楽章「人類の夜明け」の冒頭が,グレゴリオ聖歌の「怒りの日 Dies irae」の旋律の引用であり,「死」を象徴しているのではないかという解釈がある。「怒りの日」の「ドシドラシソララ」という旋律は,ベルリオーズの『幻想交響曲』やラフマニノフの『死の島』『パガニーニ狂詩曲』等多くの作品で「死」の動機として使われている。確かに交響曲第14番「死者の歌」の冒頭も「ドシドラ」ではじまるが,これも「怒りの日」の冒頭と一致する。つまり,「人類の夜明け」は十月革命の勝利を描いていると見せかけて,実はその犠牲になって死んだたくさんの人々への鎮魂であるのだ,とか,革命はロシア国民にとって「死」そのものだったのだ,とかそんなような考え方である。

  しかしこの解釈は疑わしい。むしろ偶然似てしまっただけで全然関係ないと考える方が妥当であろう。そもそも「1917年」の第4楽章冒頭の旋律は,この時全く新たに作曲されたわけではなく,はるか昔,1927年に作曲された交響曲第2番作品14([81])の旋律の再利用なのである。ということは,「人類の夜明け」が「ディエス・イレ」に似てるから裏の意味があるということになると,第2番も裏の意味があるということになる。これはどうも考えにくい。

  それに,第12番では第1楽章第2主題も「ドーシドラファミレ」という旋律である。これがフィナーレ冒頭の主題と関係していることは明白である。ところがこの主題,第12番の4年前に書かれた「ピアノ協奏曲第2番」の冒頭(ファゴットの序奏)とそっくり一致するのである。ということは,自分の息子マキシムに献呈したあの明るい「ピアノ協奏曲第2番」が「死」と関係あるということになってしまう。これは奇妙にすぎるのではないだろうか。「ドシドラ」が「死」を意味すると仮定すると,どうしてもこのことが説明できない。

  ショスタコーヴィチが「ディエス・イレ」の旋律を「死」の象徴として使った確実な例として,「ハムレット」作品32がある。ただこの演出は,よく知られているように,太った陽気なハムレットが出てくるという前衛的なものであったので,「怒りの日」の引用もむしろ陳腐な「死」の表現として揶揄的に使用されたと見るべきであろう。また,「クロコジールによる5つのロマンス」作品121の中の「泣き寝入り」にも「怒りの日」の旋律がはっきり使用されている。これも「ごろつきに殴られたけど警察には行かなかった」という風刺的な歌詞で,「怒りの日」の使用も,ちょうどファリャの「三角帽子」の中の「運命」の引用のようなちょっとしたギャグなのである。以上の二つでは「ドシドラ」だけでなく「ドシドラシソララ・・・」と非常に明確に使われている。ショスタコーヴィチにとって「ドシドラシソララ」をベルリオーズのように直接的な「死」の象徴として使うという手法は,もはや古臭すぎてもはや真面目に使うことのできないものだったのである。

  一方,「ドシドラ」だけとなると,ショスタコーヴィチがこの動機を,「死」を象徴する意味でどころか,「怒りの日」と関連づけて使っていたかどうかさえ疑わしい。少なくとも「DSCH」で自分自身を象徴するというほど明らかではない。確かに「死者の歌」の冒頭のように,どうしても結び付けたくなる曲はあるのだが,ピアノ協奏曲第2番のような例を考えると,単なる作曲上の癖だったという可能性も大いにあるのではないかと感じる。

  試しに「ドシドラ」の出てくる作品を列挙してみる。交響曲第2番,12番,14番,ピアノ協奏曲第2番,「ムツェンスクのマクベス夫人」間奏曲,前奏曲とフーガ第3番,etc.・・・。これらの作品が全部,実は「死」に関係していると仮定しよう。確かにありえないことではない。しかしそれなら,もっと明白に「死」に関係ある作品に「ドシドラ」が出てこないのはなぜなのか。交響曲第13番,「ムツェンスクのマクベス夫人」の殺人の場面や終幕,「ステパン・ラージンの処刑」,「ミケランジェロ組曲」,それに「死」を扱ったいくつもの歌曲。「死者の歌」に「ドシドラ」が出てくるといっても,冒頭部分と,その部分が回帰する第10楽章だけである。この交響曲のその他の楽章が「死」と関係ないというわけではあるまい。こう考えると「ドシドラ」の動機の使われた作品で「死」に明白に関係あるのは実に「死者の歌」だけということになる。これでは「ショスタコーヴィチはドシドラの動機を死の象徴として使った」ということを信ずるにはとうてい足りない。

  ところで,交響曲第12番の裏の意味の手がかりとして注目されたもう一つの説として,一柳富美子氏(初出失念。下記京響定期ではコピーで一柳氏の文章が配布された。)の提唱した「第4楽章に頻出する3音の動機 Es-B-C ([96]の直前など)はヨシフ・ヴィッサリオノヴィチ・スターリンの頭文字ではないか」という解釈がある。この説は井上道義氏も支持し,かつて京響の定期演奏会(第393回)でこの動機を非常に強調した演奏を行ったこともある。しかしこの説も,上と同じ理由で支持できない。「第12番」でスターリンが扱われているなら,他の作品でスターリンが一度も出てこないということはないだろう。例えば「証言」で有名になった交響曲第10番の第2楽章など(「証言」以外の根拠はおそらくないのだが)。ところが,スターリンを象徴するとされる Es-B-C の動機は,「交響曲第12番」以外には,私の知る限り後にも先にも出てこない。少なくともあれほど目立つ形では使われていない。ショスタコーヴィチにとってスターリンがそれほど重要な人物であったなら,もっといろいろな作品に「スターリンの動機」が登場して当然ではないだろうか。スターリンを扱った作品が「交響曲第12番」だけであるというなら話は別であるが,それも妙な話である。

  さて,「ドシドラ」が死の象徴でもなく,Es-B-C がスターリンの象徴でもないとしたら,いったい「1917年」はどんな曲なのだろうか。

  スターリン時代,映画音楽や声楽曲では体制翼賛音楽をさんざん書いてたショスタコーヴィチも,交響曲だけは「聖域」にしていた。良くも悪くも交響曲というのは内外に注目されるジャンルであったから,当局は彼に体制賛美の交響曲を書かせようとし,彼は意地でもそれを避ける。第9番など典型的な例であろう。ところが交響曲第11番,12番とショスタコーヴィチは革命にちなんだ交響曲をたてつづけに書く。西側でこのことは,かつてはショスタコーヴィチの変節と批判され,近年ではさかんな裏読みの試みを誘っている。

  しかし,当時スターリン時代とは大きく状況が変わっていたことを忘れてはならない。スターリンが亡くなり,フルシチョフの「雪どけ」がはじまってソ連という国の未来にやっと希望が持てるようになっていたのがこの頃なのである。もっとも第12番の頃はパステルナークのノーベル賞辞退騒ぎの後で,そろそろ揺り戻しが感じられていたころかもしれないが,いずれにせよ国家と和解の可能性があった時期ではあるのだ。

  これは今の時代かえって過激な説かもしれないが,ひょっとしたら,「交響曲第12番」は十月革命を描いた,何の裏もない額面どおりの曲なのではないだろうか。ソ連という国家が良い方向へ向かう可能性のあったこの頃,心からの革命賛美と言わずともショスタコーヴィチが交響曲の分野で革命を描くことを「解禁」してもいいかという気になったということはありえるのではなかろうか。

  この曲に裏の意味を読み取ろうとする試みは,「ショスタコーヴィチが体制賛美の交響曲を書いた」ということを認めたくないファン心理が強く働いているのであろうから,このような考え方に強い抵抗を感じる方も多いことは予想できる。しかし,10月革命を称えることが即ち当時の体制賛美ではなかったということも考慮すれば,矛盾の少なくない裏メッセージ説に無理にこだわるよりも,こちらの方がまだ自然なのではないだろうか。もちろん裏メッセージの存在の明らかな証拠がみつかれば,私自身喜んで考えを変えるけれど。

(1999.5.5)

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